井の中の蛙

3/4/2006

思想なき追憶はどこへ行くのか 「大和ミュージアム」の感想

Filed under: — sasaki @ 1:22 am

 はじめまして。

 この度「井の中の蛙」に参加させていただくことになりました佐々木啓(Kei SASAKI)と申します。
 日本の埼玉県(Saitama Prefecture)というところに住んでおります。

 現在早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程に在籍し、日本近現代史、特に戦時期における労働力動員、徴用制度について研究しております。徴用のほかに関心を持っているテーマは、労働にまつわるイデオロギー、労働運動、社会運動、社会政策、兵役、総力戦体制、「銃後」の文化・社会秩序、「病人」の歴史などなどです。

 ここに参加することになったのは、今年の1月に僕のホームページをご覧になったLawsonさんからお誘いのメールを頂いたことに端を発します。来日中のLawsonさんに実際にお会いして色々とお話をうかがってみて、インターネット上で歴史研究に関する国境を越えた交流ができるということに大きな魅力を感じ、参加させていただくことにしました。以後、よろしくお願いいたします。

 なお、「日本人参加者にはぜひ日本語で記事を書いてもらいたい」というふうに言っていただいているので、お言葉に甘えて日本語で書かせていただきたいと思います。もちろん英語で頂いたコメントには英語で答える所存です(がんばります)。

 さて、以下本題です。

 2月末に広島県に徴用関係の資料調査のため出かけてきたのですが、そのついでに同県呉市にある大和ミュージアム(Yamato Museum)を観てきたので、その簡単な紹介と感想を述べたいと思います。

 大和ミュージアムとは、別名「呉市海事歴史科学館」(The Kure Maritime Museum)といって、近代日本において代表的な軍港として栄えた呉市の運営する博物館です(2005年4月に開館)。この博物館は、呉の歴史や科学技術について展示、紹介するのが基本なのですが、目玉の展示物は、なんといってもアジア・太平洋戦争中世界最大の戦艦と呼ばれた「大和」の模型です(全長23メートルぐらい、実物の10分の1の大きさ)。 

 この博物館の名称にもなっている戦艦「大和」は、1937年11月から41年12月にかけて呉海軍工廠で製造された戦艦で、当時日本の科学技術の粋を集めたものと謳われていました。しかし、戦線の後退の中で結局「大和」はその“真価”を発揮することのないまま、45年4月、沖縄への特攻作戦の途上で米軍機動部隊艦載機の攻撃で多くの乗組員と共に沈没しました。

 片道分の燃料しか積まず、“愛する人々のため”に「一億特攻のさきがけ」として沈没したこの戦艦について、強い思い入れを抱いている日本人も多く、しばしば「大和」は“悲劇の戦艦”として、一種のセンチメンタリズム、ロマンチシズムと共に顧みられたりします。

 これに加えて昨年公開された映画「男たちの大和」の影響もあって、大和ミュージアムは順調に客足を伸ばしつづけ、昨年11月の段階ですでに100万人の来館者を迎えたそうです。僕が行ったのは平日の昼間だったのですが、それでも多くの来館者にあふれ、記念グッズ売り場は長蛇の列と化しておりました。

 問題は、いま、この「大和」をどう語るのかというところにあります。

 大和ミュージアムでは、沖縄特攻に参加した戦艦「大和」の乗組員たちの写真や名簿、遺書や手紙が紹介されています。家族への思いや死を前にした悲壮な感慨を綴る手紙などは、やはりなかなか心をうつもので、戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えるためには効果を発するものと言えます。ズラーっと並べられた若い乗組員たちの写真を見ても、なぜこんなに沢山の未来ある若者が死なねばならなかったのかと、その理不尽さをしみじみと思います。

 しかし、こうした「なぜ」に答える展示は、実はこのミュージアムにはありません。
 戦争は自然に起こるものではなく、誰かの手によってはじめられなければならないことは言うまでもありませんが、「大和」が戦った戦争が、なぜ、何のために、どのようにして、誰の手によって始まったのか、という問題はここでは不問に付されたままです。

 大和ミュージアムは「我が国の歴史と平和の大切さを認識していただく」ことをその趣旨として掲げております(同ホームページ)。たしかに展示から「戦争の悲惨さ」は分かりますので、転じて「平和の大切さ」を知ることもできるかもしれません。しかし、そうした戦争が起こるに至った経緯や仕組み、考え方の誤り、「大和」の乗組員を死に至らしめた国家や社会、人々のあり方を問わないまま獲得される「平和の大切さ」というのは、一体どれほどの意味があるのでしょうか? 「平和」を大切にしたいのであれば、どのようにして「平和」が脅かされ、戦争に至ったのか、その経験をこそしっかりとつかむべきだと思うのですが。

 大和ミュージアムの展示全体としては、1880年代に呉に鎮守府や海軍工廠が設置されるところから時系列的に並べられていきます。海軍整備の時代から、技術修得の時代(~日清日露戦争期)を経て、生産と管理の合理化(大正~昭和初期)が進み、「大和」が作られ、「太平洋戦争」へと進み、戦後「平和産業港湾都市」として再生されていく様子までが追われます。

 その時々の市民生活の様子なども紹介されていますが、全体としては科学技術の発展が基軸となって展示全体が構成されていることが分かります。戦前戦中と海軍工廠において培かわれた科学技術は、いまの時代にも受け継がれているということが強調されるわけです。

 大和についても、その「悲劇」性についての紹介に加えて、「国力面におけるアメリカ側の“量”的優位に対し、日本が“質”で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶と言えるものでした。その技術は日本の復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています」(『常設展示図録』)とまとめられています。

 科学技術の発展の足跡を振り返るのはいいのですが、しかし、殺戮兵器を造ってきたことに対する後ろめたさみたいなものはもう少しあっても良いのではないでしょうか。軍需産業が日本の重工業の近代化を推し進めたり、科学技術の発展と結びついたというのは正しい把握だと思いますし、それが現代の技術の基盤となっているのもそうなんだろうと思うわけですが、それだけの説明に終ってしまって本当に良いのかどうか。

 問題は、平和的に友好的に使えば素晴らしい成果をもたらしてくれるはずの科学技術というものが、他国の人々を殺戮するために利用されたという事実そのものではないかと思います。戦争の評価を抜きにして、科学技術の歴史を振り返るなら、それは確かに進歩と発展の歴史となるでしょう。しかし、それで「平和の大切さ」をつかむことができるのかどうか、どうにも疑わしいと思います。

 さて、ダラダラと長い文章を書いてしまいましたが、そろそろまとめます。

 結局のところ、大和ミュージアムの展示には大事な部分での「思想」がないと思うのです。「大和」の悲劇、戦前戦中の科学技術の高度さ、これを表現すること自体が悪いとは言いません。問題は、日本が行ってきたところの種々の戦争の評価を避けているがゆえに、情緒的ではあるが、論理的ではない歴史展示になってしまっていることです。「大和」の悲劇について、なぜそれが起こったのかという説明をするために必要な展示がここにはなく、呉の科学技術について、それがもたらしてしまった加害の問題がここではすっぽりと抜け落ちています。ただただ無条件の追憶とも言える情感だけが浮遊しているように見えます。

 歴史を語る上で肝要な部分の評価を不問に付した追憶は、一体どこに向かうのでしょうか。
 しかし、こういう思想抜きの歴史は、すぐに壁に突き当たるはずです。

 例えば外国の方からは、おそらく次のような批判が出るでしょう。「侵略された側の視点も取り入れるべきだ」、「日本人の被害や苦しみばかり描いて、侵略戦争を推進した責任についてはまったく触れていないのは問題だ」などなど。日本が実際に遂行した戦争そのものの評価を放棄したこのミュージアムは、そうした批判にどう答えるのでしょうか。

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